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風猫通り三番地ニノ二十三

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路地裏っぽい人が屋根の間の空を見上げる場所。

ネットで切れる人のネットは狭い、気がする

 アキバの例の事件に関連して。

 ネットが発達するにつれてより信奉されるようになったと思われる概念が「共有」じゃないだろうか。感情的にいうなら「共感」。
 これが僕には、どうにも胡散臭い。最近特に。
 情報がネットにあって誰しもが一様にさわれるよう等価であるべき存在すべきだというのはネットにふれる人のほぼ共通の認識だと思うのだけれど(誰かによる恣意的な情報隠蔽なんてもってのほか)、実際の所、ネットの物量はインフラが整備されるにつれて人間が処理できないくらい膨大な量になっていっっているため、ネットに存在する無限とも言うべき量の情報のほとんどに、僕らは触れないままで過ごすことになるのは明確だ。でも、技術によって権利として発生した平等であるべき共有はますますもって神聖化され、フィルタリングに対する嫌悪感は日に日に募っている。これらは次々と国会に提案されるどーとでも運用可能な法案と、それにたいするネットコミュニティの反応が物語っている。僕も次々と登場する無茶な法案に対しては正直閉口だけれど・・・。
でも逆に、「すべての情報はネットにあって誰でも取捨選択できるようになっているべき」という論には懐疑的だ。何故かというと、上記の通り毎日膨大になっていく情報それ自体、いいかえれば、情報が膨大になること自体が正しいという自己目的化に影響を受けている(思いこんでいる)人が少なからず居るように思われるからだ。繰り返すが、膨大な情報すべてにアクセスすることは出来ない。たとえば柴犬という単語をGoogleで検索した際にヒットした約 5,600,000ページのうち、あなたはいくつのサイトを訪れることになるだろう? そして主に参照されるのはGoogleで表示された最初の数頁のサイトの筈だ。その他のサイトは誰かがみるかもしれないけれど、誰も見ないかもしれない。自分がいつか見るかもしれないが、見ないかもしれない。Webとはこういう確率的なものであるのだが、それにもかかわらずWebは時間と正比例的に拡大すべきである、拡大するのが当たり前であると考えていはいないだろうか。確率的といえばリアルワールドで、他の書籍で、同様の情報を目にする機会もまた確率的であるともいえよう。でもその上でWebの万能性や拡張性に依存するの何故だろう。情報の検索が簡単だから?図書館で童ジャンルを探せば同じような情報が手早く見つかる可能性も高いが? それでもWebを信頼する理由は何だろう・・・。もしかすると、自分はwebのことを、いつか自分のために有用な情報が掘り出されるため、日々勝手に膨張する自分の外部脳のようには考えてはいないだろうか?
 すべての自分以外の事物と同じようにネットは自分の外側にある。自分の脳の代替物ではない。それが証拠に、ネットに依存している人間ほど情報を収集する傾向が偏っている筈だ。自分と同じ性向を持つ情報ばかりを繰り返し見ることで快楽を得る。
 ネットの創成期から言及されていることだが、ネットは冷静に議論をするには向かないメディアである。むしろ感情の収集・蓄積の方が得意分野だろう。感情を一方的にはき出すこと 同じ感情を持つ人間と傷つかない言葉を掛け合うことで満足を得ること、性的な情報を安価に秘密裏に簡単に集めること、そしてこちらの顔を見せずに人を扇動すること・・・すべてネットがハードルを下げてきたことだ。共有、共感。名無しの理念(言い訳)の総本山である2chから生まれた優秀なソフトウェアだったWinnyがもてはやされたのもこの共有・共感という価値観を体現したものだったからだ。最近で言えばニコニコ動画。一つの動画に一定期間しか蓄積されない言葉が流れ、感情でもって楽しむ。なによりも共有が尊ばれ、削除した権利者を仮想敵(本当の敵ではない、あくまで感情的な一過性の敵)とする傾向があるのではないだろうか? それにこれらにはリスク分散という意味合いもある。赤信号みんなで渡れば怖くないなんて冗談もあったけれど、「黙ってるけど実はだれでもやっている」という免罪符はとても強力である。先ほどの図書館の話で言えば、「図書館で集めても同じはずの情報をネットで集めるのは、それがより快楽的・安全的である」という視点も存在するといえよう。ネットによって情報を検索する時間が圧縮されるというのは方便であり、元来自分の脳にない情報をネットに仮託している場合、その情報の重要度は下がって上手く運用できない。これは経験論だがうなずいてくれる人もいると思う。それよりも僕はこのネット共有快楽論というべきものを推す。
 だが、実際の所そういう快い感情の収集を体現した優秀なシステムでは抑圧できない感情というのは誰にでもあるものだし、自分の好きな感情ばかりを集めていてもノイズは乗る。情報も単調になって刺激が減る。様々な要因でそのノイズや平坦さに耐えられないほど自意識が弱まってしまうと、極端な行動になってしまうということはないとは、いえない、だろう。
 僕らはファミコンの誕生に立ち会い、公衆電話でポケベルにメッセージを打ち、メールも出来ないバカでかい携帯を物珍しげに眺め、ネットの始まりから、このネットという代物がいかにして発展してきたかを自分の歴史と比較して大体把握できる世代だから、実際ネットに依存気味かなと自嘲はしてもシステム全体を俯瞰することは不可能ではない。だが、僕らに続く世代は、生まれた時には光回線があってTVとネットTVの境界線があやふや、小学校でネットを使い、携帯でニコ動を見るなんて子に、世界はいったいどう見えているのだろう。ネットは外部脳か?もう一つの世界か?真の感情のはけ口か?それとも?・・・彼らのネットは「広い」のだろうか。僕らの世代がいいわけでも彼らの世代が可哀想なわけでもなく、日々それは変質していくだけだろうが。
 そんな僕が一つだけ確信していること。人間が技術を生み出すのだけど、技術は人間を否応なしに変える。物理的にも精神的にも技術は人間を変化させて続けている。多分、人間が技術を生み出すよりも早いペースで。これは間違いない。



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YMO / Technodon
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by kazasiro | 2008-06-13 23:34 | 雑記