前回の投稿から八年ですか。月日の経つのは早いものです。
自分の周囲はかなり様変わりしたことと、呆れるぐらい何も変わってないことが入り混じっていて、そういう場所で僕は相変わらず生きています。成熟した大人には結局なれていませんが、一族や社会に於ける立ち位置も変わり、もうそろそろ子供でもなくなったかなと思っていた昨今でしたが、結局そうでもないんだなと思うような出来事があったので、来訪者もほぼいないこのブログを更新することにしました。
この文章は誰のためでもなく自分のためのものです。
最近僕は、尊敬できる人物を見つけることができました。
その方々のおかげで、停滞していた自分の生活は結構変わり、このまま歳を重ねるばかりと思っていた頭の中で、昔のように無駄なことをあれこれ考えたり、新しいものを取り入れようという意欲を得ることが出来ています。本当に感謝しかなくて、直視が難しい先行きのことも前向きに捉えたりなんかも、徐々に出来るようになってきています。
僕はのんべんだらりんと生きてきたこと、己の人生を浪費してきたことについて取り立てて後悔している訳ではありませんが、それでも(他人と比べればくだらないことであったとしても)新しいことを始める能力が自分にまだあると自覚できる瞬間を再発見するのは素晴らしいと感じます。そういう契機を(一方的にですが)頂いたという捉え方をしています。
その人物が、最近になって、些細な嘘をついているということに気づきました。
その嘘自体が誰かを傷つけたり、だいそれたことだったりするわけではありません。どのような立場であっても、人はその全部をさらけ出すなんてことは出来ません。僕自身も嘘を重ねて醜く逃げ出したりもしましたし、自分の本性を友人に告げることなんて今でもなかなかできません。たとえ親友の関係であったとしても、お互いについては幻想と想像で把握している部分がいくらかはあって、それで上手く回っている関係でも別におかしくはないでしょう。
だから、僕がその嘘に気づきさえしなければ、別にどうということもなく過ぎ去ってしまうもののたぐいだったと思うのです。
ただ、僕はなぜだかものすごく衝撃を受けてしまって。
その原因は多分、嘘をついた当人がどうこうではなく、その嘘を判断する根拠となる僕個人のパーソナリティや社会的立ち位置を顧みるようなものだったからで……もちろん双方向の関係ではないので、僕がその嘘についてあれこれ文句を言う立場でもないですし、僕が一方的にショックで落ち込んでいるだけなのですが。
おそらく、成熟した大人だったらこの程度の嘘は飲み込んで普通に受け流せると思うのです。大人なら。
でも僕はいまだできてない。臆病のくせに、自己顕示欲だけは常に強くて。
嘘をつかれた怒りでも悲しみでもなく、自分が勝手に捉えていた世界が否応なしに変容しつつあるのだということについて苛立っているのかもしれません。それは、僕の方に世界の変化についていく能力がないということでもあり、感情をコントロールする技能が甘いということなのかも。家族間の問題で、感情のコントロールこそが一番必要だと思い知ってはいるのですが。結局、自分を甘やかして経験を積み重ねることを怠ってきたツケを払わされているのだなと思ったりもします。
これまで僕は、とにかくストレスを避けるようにして生きてきたので、今回のことももし耐え難いのであれば、黙って去るということが一番正しいんじゃないかと思います。これまでもそうやって来たので。だから、友達も極小で作るのが苦手だし、もちろんパートナーもいません。このような生き方を許される環境にいる事自体(今ではここから抜け出すことすら至難になってきています)が、いつまでも成熟しない理由なのだと思うのですが。
ただ、その人物はこれから多分もっともっと成長して活躍すると思うし、それを遠くからでも見守ったりしたいという気持ちは依然として強くあります。その陽の部分が自分にもたらす恩恵はまだまだあるんじゃないかとも。そのために感じる幾らかのストレスを代償としても。今はまだ。
だから、今日は今のこの気持ちをここに残して、記録装置として。
明日からはまたいつもどおりに、尊敬できる人物を尊敬し応援して、自分は一歩でも前向きに前進するために、記します。
SNSの複垢で己を隠しながら発信とか、匿名の場所で書き込んだりするというのは違うと思ったので、紛れもなく僕が書いたとわかる、誰も来ないこの場所に書いておこうかと思い立ちました。
本当はオフラインの日記とかに書いておけばいいだけなのでしょうけれど、そういうところも未成熟なんだろうなとは思っています。ブログサービスも減ってきているので、いずれインフォシークやジオシティーズのように消えていく時が来たら、この駄文も役目を終えてネットの海の藻屑となることを願って。