どもー。
明日朝、東京へ発ちます。枕元に座敷童ならぬキャリーバックをおいて
今日は眠るのです。
例大祭からこっち、風神録の感想や期待を書いてこなかったのですが、それは、今年の上海アリスの(商業を含む)作品群が、いままでのように「幻想郷の枠を作る」ものではなく、「幻想郷の解像度を上げる」方向に転じているのではないか?という風に考えているからなのです。
風神録では、霊夢が祭っている物、霊夢の信仰心が開示されるのかもしれません。
それは幻想郷そのものの形の捉え方を一変させるかもしれないし、いままでのようにゆるゆるとされないかもしれない。
ただ、年々上がる表現力と共に、神主の表現指向が直接的になってくるのではないか。
言葉よりももっと強く、今ある自分の形を表現することを希求するのではないか?
それは幻想郷の結界となり、幻想郷の形を更に強く固定するのではないか?
こっちの妄想が入り込めないぐらい強力な結界に。
・・・などという予感がしています。
異論はあるでしょうが、僕の感じ方では、これだけ長期にわたる作品活動に比べ、東方世界の変化は非常に小さい。
表現者であれば、他のことをしたくなるのが普通だと思うのですが。
それは日本の民俗、そしてSTGというどちらも僕らにとって非常にトラディショナルな形式を基盤にしているからなのかもしれません。
(「外から見た日本」ではなく、西洋かぶれで適当でなんでもありでありながら、アイデンティティを過去にあったと信じる日本固有の風土民俗に求めるという意味で、現在の日本を模した幻想郷世界は非常に今の日本的であると思うのです。そして、STGはコンピュータゲームの中では非常に古く形式化したジャンルであります)
それが、風神録で変わるのか、変わらないのか。
よく言われるようなキャラクターリセットなどの話は、消費する受け手側にとっては、実はたいした問題ではないのです。書き手が受け手の頭の中をどうこうすることはできないのですから。
それよりも、書き手がどう変わるのか。既に変わっているのか。やはり変わらないのか。
こちらからどうこうできない結界の向こう側がどうなるのか。
楽しみですねー。
東方最初のSTGだった「封魔録」と、明確な対を成すであろう「風神録」。
陰陽の記号が白と黒とで対を成すように、
風神録が現れて何が示されるのか。
微妙な胸騒ぎと共に、床に就こうと思うのでした、と。
・・・まぁこんな事を書いていても、
当日、風神録が手に入らない可能性も少なからずあるわけだけどな!