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風猫通り三番地ニノ二十三

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路地裏っぽい人が屋根の間の空を見上げる場所。

煙突の煙と、待ちぼうけ

 工場が午前の操業終了を告げるサイレンを鳴らすと、高い高い煙突から吐き出される煙の量が目に見えて減った。ただ、流れる西風にたなびく煙はどこまでもわだかまっていて灰色の道はくっきりと残っている。あちこちにある扉からは煤けた作業着をまとった男達があふれてきて、持参した弁当の包みを開けたり、壁により掛かって煙草に火を付けたりするのが見えた。
 ロム・ツァイトは遠くからその様子をぼんやりと眺めている。
 目の前にはご主人様のトランクと自分の鞄が寄り添って並んでいる。持ち主はといえは例によって自分を残してよくわからないものを探索中なのだろう。はっきりいって手持ち無沙汰だった。旅の途中で悲しいのは大きな本を携帯できないことだ。鞣し革で装幀された文字と文章の集約物が無性に恋しくなる時がある。一人で居る時などは特にそうだ。孤児院にいたころも、今の仕事に就く為に本部で研修した時も、ぼんやりする時間なんて無かったというのに、いざ派遣されて旅に出れば、どうも空白の時間が多くなっている気がする。勿論、己から進んで見聞を広め、メモでも取るべきなのだろうけれど。町はずれの工場の前、広大な空き地、未舗装の街道。遠くには村。見るべき物は少ない気がする。
 古き書物によれば、猫という動物は基本的に怠惰で、よく眠る習慣があったという。滅びてしまった今となっては想像するしかないが、もしかすると自分の本性は人間よりも猫に近いのかもしれない。微風にしっぽを浮かべてゆらゆらと揺らしてみる。
 ああ、暇だ。
 そうしていると、工場前の広場で休憩を取る男達の一部がが列を形成し始めた。見れば、一人の女性が片隅で露店をつくり、何かを振る舞っているのが見える。視界には入っていたのに気付かなかったのだから、よほど気がそぞろになっていたのだろう。コップか何かを受け取った労働者はそれを飲みながら周囲に座り込んだりしている。客はどんどん増え、女性はさっさと切り盛りしている。一人で大変そうだなと考えていた、
 その矢先。
 女性が振り返った。
 まっすぐにロムを睨んだ、のが解った。
「ちょっと、そこのあんた!」
 何しろ耳が大きい分、音の指向性に関しては絶対間違えない自信がある。彼女の声は自分に向けられた物だ。しかし五十メートルは離れているだろうに、細い体の線からは想像も出来ない胴間声だ。戸惑うが、
「は、はぁい、なんですかー」
 駆け寄ればいいのに、ロムもその場で叫び返した。届いただろうかという不安もまるで無駄で、言葉尻がロムの口に残っている間に、さっきの倍の声量がロムの耳に再度突き刺さった。
「ぼけっと見てないで手伝いな!」
「――は、はいっ」
 それは文字通り彼女を貫通し、全身を総毛立たせるに十分すぎる音の弾丸だった。
 文脈からすればまったく理解できない傲岸不遜な命令だとというのに、ロムは抵抗できないまま思わず返事を返し、荷物を抱えて女性の元に駆け寄ったのだった。
 露天商の女は並んで待つ労働者達に、煮立つ寸前の薄い珈琲をレードルで掬っては提供していた。男達は鍋の横に置かれたブリキの箱に硬貨を一枚落としてそれを受け取る。鍋の右手には溢れそうなほど水を湛えた盥(たらい)があり、返却されたコーヒーマグが山ほど浸されていた。
 駆け寄ったロムの姿を目にすると、男達は胡散臭そうに、或いは必要以上に興味津々に視線を向ける。箱入り娘を自認するでもないけれど、若い娘がこんな露骨な視線を向けられていい気分がする訳はない。ロムは努めて無視することにした。
 状況は一瞬で把握した。袖を手際よくまくり上げる。
「このマグを洗って渡せばいいんですね。拭かなくていいんですか」
「そんな手間いらないよ。水が汚れたら後ろの小川から汲んでおいで」
「解りました」
 ひゅう、と男達が口笛で囃す。
「おいおい、新入りって感じじゃなさそうだが、いいのかよ」
「妙に素直だな。この辺の娘じゃないだろうし」
「そうそう亜人がいてたまるかよ。でなきゃこんな現実離れした美人になるかよ」
「おい、どっかの金持ちのメイドじゃないのか? 勝手に使うと後が大変だぞ」
 青空の下のカフェーの女主人は顔色を買えずに答える。
「人が働くときは自分も働くものさ」
 哄笑が上がる。
「ちげぇねぇ」
「まぁお前が働いてる夜には、俺たちはよろしくやってるんだけどな」
「ここであんたらが落としたお金がいざというときの命取りさ。幼気で頭の悪い娘を守るために不味い珈琲を振る舞ってるってことさね。さっさと飲んだらカップを返しな。お代わりにもサービスはしないよ」
「まったく、怖いねぇ」
「いっそその子が切り盛りすりゃいいんだ」
 連鎖する濁声。男達の下卑た笑い声が木霊してロムは正直頭が痛かったが、コーヒーカップが綺麗になる様子に専念することで何とか耐えた。一応、こういうことは本業であるし、ぼんやりとしているよりは悪くないかもしれない。最初に見た感じではコーヒーの入った鍋はさほど多くない感じだったが、工場の始業を告げる午後のサイレンが鳴り響くまで、ロムは水汲みに二往復を費やさねばならなかった。
 男達の姿が工場の中に消え、煙がまた立ち上り始めた。
 そこでようやく、珈琲の香りに気付く。
 みれば、鍋の横で別に湧かしていたポットの湯を、女性がコーヒーカップに注いでいる。
「飲みな」
 差し出された珈琲は、先ほどまで男達が飲んでいたのとは比較にならないくらい、芳醇な色と香りを湛えていた。
「奴らに飲ませてるのとは違う、ちゃんとしたのだよ。ありがたく飲みな」
「あ、ありがとうございます」
 顔色一つ変えず、感謝もなく、不躾で無愛想な言葉なのにどうしても嫌な気持ちになれない。不思議な人だなと思う。
 受け取ろうとして、自分の手がまだ濡れているのに気付いて、あわててエプロンで拭って。それからしっかりと両手で受け取った。半分猫だけど猫舌ではないので、でも火傷には気をつけて、ゆっくりとカップに唇を寄せた。
 苦い。でも、その後がすごく透明になる。おいしいと思う。なんだか嬉しい。
 女性は売り上げを無造作に掴んで、ロムに差し出した。
「人なんて雇ったことないけどこれくらいでいいだろ」
「それは多すぎます」
「あたしが知らないような給金貰ってそうなのにかい。馬鹿なあたしでも身成を見ればわかるんだよ」
「きちんとした仕事には適当な対価が決まっています。突然のことだったんで、まぁ、お金は受け取りますけど」
 そういうとロムは、硬貨を十枚だけポケットにいれると、残りをブリキ缶に戻した。
「……大きな街で、ちゃんとしたお勉強してきたって顔ね」
「勉強は、まだ途中です。お仕事もしてますし、学校もいってませんし」
「あたしとは大違いだ。だけど、女としてはあたしの方がずっと上だけどね」
 もう老境に差し掛かった女性の言葉に、ロムは目を丸くする。
「あんた、男を待ってたんだろ?」
「男っていうか……雇い主ですけど、まぁ男性です」
「女は動きだよ。自信もって動いてる女に馬鹿な男の目線が噛みつくんだ。どんな時でもぼんやりしてると枯れちまう。少々年を食ったってそれは変わらないよ。騙せる動きを身につけな。いいことあるよ」
「はぁ」
 彼女の瞳には、ぼんやりしていた自分はどう映っていたのだろう。自分が待っている「男性」がどういう人だと思っているのだろう。まるで勝手で見当違いな話だけれど。でも反論も訂正も出来ないまま、ロムは女性の言葉を美味しい珈琲と一緒に飲み込んでしまっていた。
 その後、女性はさっさと店を仕舞い、手押し車を引いて村へと帰っていった。ロムが挨拶しても、きちんと返事することなく、振り返ることなく。それでもロムは彼女の後ろ姿が見えなくなるまでずっと見つめていたのだった。
 一方。
 ロムの雇用主である壮年の紳士は、工場から煙が立ち上っている間に姿を見せた。
 だからという訳でもないのだろうが、ロムはいつもよりちょっとだけ大きな動きを心掛けながら、旅の同行者の元へと駆け寄ったのだった――ポケットで跳ねる硬貨の音を響かせながら。
by kazasiro | 2008-06-18 22:38 | 風猫通り

by 風城一希